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プロレス名勝負一日一話

武藤敬司 vs. 高田延彦(1995.10.9)

◇昭和のプロレスおじさんが平成プロレスを振り返る31番勝負◇

平成の「プロレスと僕」の来し方をプレイバック!

第7戦 平成7年(1995年,25歳)


平成7年10月9日 東京ドーム

新日本プロレス対UWFインターナショナル 対抗戦

武藤 敬司 vs. 高田 延彦



 野茂英雄投手が日本人初のメジャーリーガーとしてロサンゼルス・ドジャースでデビューしたニュースで沸き返ったこの年、僕は一度もプロレス観戦をしていない。

大学に6年間通うという、長いモラトリアム期間を経て4月から社会人として働き始めた。伊藤ハムの東京営業部というところに配属された。営業といっても当時は御用聞き営業、ルートセールスマンだった。大田区のエリアを任され、地域のスーマーマーケット、精肉店を巡回し、ハム、ウインナー、食肉加工調理惣菜を納品していくのだ。この仕事がまた長時間労働だった。朝7時半には出社し、終わるのは22時が当たり前。営業所と同じ敷地内に社員寮があったので、すぐに部屋に戻りバタンと寝るか、遅い夕飯とお酒を飲みにいくかだ。なにせ、家賃がかからないので初任給レベルの収入でも比較的自由になるお金はあったと思う。夜な夜な権之助坂の目黒飯店で中華丼、餃子、ビールで一日の疲れを取るのが日課だった。いや、アルコールを摂ることで疲れの感覚を麻痺させていたのだろう。


 休日は水曜日と日曜日の週休二日。毎日夜遅いので、毎日を耐えて次の休みの日が来ることだけが楽しみだった。今思うと、もう少し前向きに捉えて仕事をすることが出来なかったのだろうかと思うが、当時はいきなり放り込まれた寮生活と15時間労働の毎日にパニックから無感動、無神経、無関心人間になっていたのかもしれない。

 

 そうしているうちに、だんだんと楽しかったダンスのレッスンに通う時間が合わなくなり、少しずつスタジオへの足が遠くなり始めていた。

 

 そんな中でも、休みの日は映画館に通ったり、バレエのビデオを買って寮の部屋で一人見ていたりはしていた。そしてプロレスも毎週週刊ゴングと週刊プロレスは必ず買って、プロレス界の状況はチェックしていた。

 

 1月から2月にかけての武藤敬司の大スランプと自信喪失からの長期欠場。4月の北朝鮮平壌平和の祭典でのアントニオ猪木対リック・フレアー実現。5月の福岡ドームでの武藤敬司復活とIWGP王座戴冠劇。勢いに乗った武藤の8月のG1 CLIMAXでの優勝。と、新日本プロレスはダイナミックにいつも話題を提供していた。そんな面白い流れが起きていることは逐一チェックしつつも、とても会場まで足を運ぶ余裕がなかった。

 

 そんな新日本プロレスとは対照的に、一斉を風靡しながらも徐々に人気が低迷し経営が危うくなっていた団体もあった。高田延彦率いるUWFインターナショナル。平成3年〜平成5年にかけては、自ら「最強」のプロレス団体だと名乗り、他団体、特に新日本プロレスに対戦を迫り挑発していた。それが当時は猪木が一線から退き、闘魂三銃士を中心とした花かやなプロレスに転換しつつあった新日本プロレスからUWFインターナショナルへ指示が移って行った要因でもあった。

 

 しかし平成6年(1994年)頃からプロレスの枠を超えた「ナンデモアリ」の格闘技イベントUFC(Ultimate Fighting Championship)が海の向こうで台頭してきた。プロレスより全然すごいんじゃない?という声が日本でも高まってきた。プロレス、特に「プロレスこそ最強」と謳うUインターにとっては最強幻想が崩される一大事であった。これはUFCを叩いておかないといけないということで、Uインターの用心棒的存在の安生洋二(のちのミスター200%男)が、UFCの王者を排出していたグレイシー一族の代表、ヒクソン・グレイシーに対して道場破りを敢行。道場の扉、窓を閉め切り、マスコミを入れずに行われた果し合いの末、扉の外に出てきた安生の姿は悲惨なものであったそうだ。日本に帰ってから安生が違う結果を吹聴しないようにと、果し合いの一部終始を録画したテープをグレイシー一族は日本のマスコミに送ったという。


 そんなわけでUインターの最強幻想と人気は凋落。営業不振からあっという間に経営の危機に陥った。しかしそれでもUインターの挑発は止まらない。キレた長州力がたまたま空いていた東京ドームに日程を即押さえ、ここで新日本vs.Uインターの対抗戦、どちらが強いのか、衆人の前で決めようとなった。


 これが10・9なのだ。


 この大会開催の決定を僕は営業巡回をしている途中だったのか、スポーツ新聞一面記事で知った。まさに衝撃だった。それは9月の中頃のことだったからだ。東京ドーム大会といえば宣伝に時間をかけて集客するのが常だったのに、わずか2、3週間前に決まったのだ。


 行きたい!絶対見に行きたい!すぐに電話予約したい!


 しかし、、、1995年10月9日は、調べていただくとお分かりになるが、月曜日だったのだ。10月のこの週の月曜日は毎年祝日で世間は休日だ。しかし、、、伊藤ハムの休みは水曜日と日曜日のみ。年末年始とお盆以外は、祝祭日関係なし!10月9日の祝日の月曜日は出勤日だったのだ。入社一年目、右も左もわからず、毎日朝から夜遅くまで働いていた僕に、このタイミングで有給休暇を申請するだけの段取り、得意先、先輩たちとの調整ができるわけも能力もなかった。「忸怩たる思い」というのはこういうことか、と思った。


 落ち目となっていたとはいえ、UWFインターナショナルに新日本が負けるようなことがあれば、プロレス界の盟主の座を事実上手放すことになる。これは、特に10年、20年と新日本を信じてきたファンにとっては耐えられないことなのだ。Uインターにとっても第一次UWF時代からの新日本プロレス否定と、我々こそ最強と謳ってきたものが「ウソだった」と判定される。負ければ全てを失う。それだけ勝負の結果によってはリスクが双方に大きすぎる戦いだった。どちらも本当ややりたくない、が、ハイリスク、ハイリターンでもあるのだ。だからこそ、そういう戦いこそ、ファンは飛びつくのだ、皮肉にも。なぜなら、ファンは自分たちができないこと、躊躇してやらないことを代わりにやって戦う姿に自己を投影するからだ。


 この日のチケットは発売と同時に売り切れるほどだったという。


 メインイベント、つまり両団体の大将同士の一騎打ち。UWFインターはもちろん高田延彦。新日本プロレスは、5月にIWGP戴冠、8月にG1制覇の武藤敬司。長州、藤波がまだ健在な中、まだどこか次世代のスターと見られていた武藤の双肩に団体とファンの期待、願いが託された。


 高田と武藤。これまでは高田の方がデビューも早く、マスコミへの露出、話題性、団体トップの経験全てうわまっていたと言っていい。プロレス(ファンの目)の見方は、「格」が重要なファクターの一つ。そうすると、高田の方が勝つんじゃないか?という予想が強くなる。武藤に、新日本に勝って欲しい側からいうと、だからますます祈りが強くなる。思い入れが強くなる。


 10・9、その日、今となってはその日、どういう思いで仕事をしていたのかは、24年経った今では思い出すこともできない。でもきっと、朝から仕事に追われて、夜に営業所に帰還するまで全くそこに思いを馳せることもなかったと思う。それだけ毎日、その日、その時、その得意先に相対することで精一杯だった。


 結果を知ったのは翌朝の日刊スポーツ紙一面だったと思う。ホッとした。


 そんな社会人一年目の毎日だった。



by meishoubu | 2019-04-28 09:13 | 1995年(平成7年)
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陽の目を見ない試合でも語り継がれるべきだ。プロレスというものありき…。プロレスを後世に残そう。
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